
私はもう何年も瞑想しています。始めたのは学生の頃でした。ある日、ふと感じたのです。人生は、このまま前に走り続けて、年を取り、最後を迎えるだけなのだろうか?」きっと、別の生き方があるはずだ、と。それから私は真面目に探しました。とても真面目に。
ほとんど考えられる限りの瞑想法を試しました。方法、姿勢、マントラ、イメージ、教え、思想、宗教。でも、後になって分かったのです。問題は方法ではありませんでした。
問題は、私の瞑想のしかたでした。
私はいつも、何かを期待して瞑想していた。何か特別な体験。何か深い気づき。何か「次の段階」。
期待は、瞑想の正反対だったのです。
瞑想は「すること」ではなく、「やめること」私たちは瞑想を、特別な行為だと思いがちです。時間をつくって。努力して。うまくやろうとして。
実際には、瞑想は努力が止まったところから始まります。成功する必要はありません。良くなる必要もありません。到達点もありません。
呼吸していれば、それで十分。音が聞こえていれば、それで十分。ここにいれば、もう終わっています。
技法が、かえってややこしくする
多くの技法は、こう思わせます。「瞑想するには、何かを足さなければいけない」マントラ。イメージ。意味。信念。正しいやり方。それが一番の誤解です。瞑想は足すことではなく、引くこと。積み重ねることではなく、ほどくこと。探せば探すほど、遠ざかります。
自然は瞑想しない。ただ、在る。
椅子は瞑想しません。山は集中しません。石は静かになろうとしません。小川は「手放し」を練習しません。彼らは「今ここにいよう」ともしません。なぜなら、他に行けないから。うまくできているかも気にしない。意味づけもしない。ただ、在る。「在る」という言葉より前に。彼らのように、在てください。
問題は、思考ではなかった
瞑想とは、思考を止めることだと思われています。静かになること。無になること。思考は問題ではありません。音も問題ではありません。私たちを疲れさせるのは、起きていることへの終わらないコメントです。
コントロール。評価。こうあるべき」。そして、とても大事なことがあります。思考は、思考を解放できません。考えて自由になろうとするほど、考えの中に閉じ込められます。
方法のない、小さな問い
少しだけ、立ち止まってみてください。そして、こんな問いをそのまま置きます。この音を聞いているのは誰?呼吸しているのは誰?この身体を感じているのは誰?これを生きているのは、何?
答えなくていい。分からなくていい。これらの問いは、答えのためではありません。開いたままでいるためのものです。
私」の前に、もう在る
「私が瞑想している」
「私が考えている」
「私が分かった」
その前に、すでに在るものがあります。何かが、知覚している。努力なしに。意図なしに。椅子は「私はここにいる」と言いません。ただ、います。あなたも、言わなくていい。今この瞬間で、十分
完璧な時間はいりません。長さも必要ありません。この文章を読んでいるなら、何かが読んでいます。呼吸があるなら、何かが呼吸しています。足すものはありません。引くものもありません。
瞑想は、人生を良くしない
重さを、取り除くだけです。コントロールが減る。緊張が減る。「ちゃんとした自分」を守らなくてよくなる。残るのは、シンプルで、自然で、最初からあったもの。石のように
石は、自分が存在していることを知りません。それでも、在ります。「今ここにいよう」ともしません。そんな言葉も知りません。ただ、在る。
それで、十分。