パトリス・ジュリアンのブログ

Patrice Julien's Official Japanese blog

沈黙の冬が教えてくれること

 
冬は風景を暗くする。
すべてが、より遅く、より静かになる。
霧は木々にまとわりつき、
冷たさは動きを凍らせ、
自然はまるで動きを止め、
眠っているかのように見える。
派手なものは何もなく、
一般に言われる意味での「喜び」もない。
それでも……
このエネルギーは、確かに存在している。
より荒く、より厳しく、
しかし、深いところで必要不可欠なもの。
冬は、私たちに
生きるのが容易ではないものを迎え入れるよう促す。
減速すること、
見かけ上の空白、
重くなりがちな感情、
語りかけてくる沈黙。
この季節は、
人を魅了しようとはしない。
教えるために、そこにある。
人生は一直線ではなく、
循環であることを思い出させてくれる。
拡張の後には、収縮がある。
光の後には、影がある。
動きの後には、静止がある。
そして、この暗く冷たい休息の中で、
何かがすでに準備されている。
沈黙のうちに。
いつもと同じように。
 

禅とウクレレ、自由自在のパラドックス

 

ウクレレを始めて3年になる。本も買ったし、チュートリアル動画もたくさん見た。先生も変えたし、楽器も何本か替えた。それなりに、ちゃんとやってきたと思う。

演奏者の動画を見ると、動きが軽い。音が自然。考えているように見えない。ああいう感じが「上手い」ということなんだろうと思う一方で、あそこまで行かなきゃいけないのかと考えると、少し気が重くなる。

がんばるほどズレる

実際に弾いてみると、がんばればがんばるほどズレていく。指は固くなり、リズムは乱れ、頭は忙しい。集中しようとすると、なぜか今ここから離れていく。正直、少し落ち込む。ある時、もう「最終レベル」を目指すのをやめた。上達しなくてもいいし、評価されなくてもいい。うまくなろうとしないことにした。

練習の意味を変える

それからは、練習を上達のためにしない。義務でも、自分との約束でもない。ただリラックスするために弾く。気が向いたらウクレレを手に取る。コード表を見て、今出ている音を追う。先のことは考えない。うまく弾こうともしない。止まりたくなったら、やめる。不思議なことに、ある瞬間が来る。疲れたわけでも、飽きたわけでもない。「あ、もう十分だな」という感じ。その感覚が出たら、そこで終わりにする。

音が少し変わった

そのやり方にしてから、音が少し変わった気がする。上手くなったわけではない。でも、邪魔していない感じがある。集中しているわけでも、散漫でもない。禅でいう自由自在は、たぶんこういう状態だと思う。何かをコントロールすることでも、到達することでもない。ズレたら気づいて、戻る。それだけだ。

微笑みの共通点

仏像の微笑みや、モナ・リザの笑顔を見ていると、いつも思う。あれは何かを成し遂げた人の顔ではない。集中している顔でもない。ただ、そこにいて、力が抜けている。その感じを見ていると、「こうでなきゃいけない」という考えが、少しゆるむ。モナ・リザと、よい仏像の表情に共通点があるとしたら、それは「特別な存在」に見えないことだと思う。悟っている感じでも、何かを達成した感じでもない。ただ、目的も評価もなく、そのままそこにある。

教えられない状態

ああいう状態は、技術として教えられるものではないし、誰かが手渡せるものでもない。ただ見て、感じて、「あ、こういう感じかもしれない」と思うだけだ。だから仏像や絵画は、答えではなくヒントとして残っている。

道元のいちばん現実的な助言

道元坐禅について、「悟りを求めて坐るな」と言った。正しい姿勢で坐り、呼吸し、ただそれを続けなさい、と。何かを得ようとしないこと。それが一番の近道だと。今思うと、

あれは精神論ではなく、とても実用的なアドバイスだった。

ウクレレも同じだった

ウクレレも、結局それだった。上達しようとしない。いい演奏を目指さない。ただ手に取って、コードを押さえて、音を出す。続けたくなくなったら、やめる。それだけ。不思議なことに、そのやり方に変えてから、少しだけ音が自然になった気がする。何かを狙って起きた変化じゃない。狙わなかった結果だ。

自由自在は、説明の外にある

自由自在は、理解するものでも、達成するものでもない。ただ、目的も評価も外れたときに、たまたま現れる状態だと思う。

あなたの人生、コンビニ方式になっていませんか?

 

アートのように生きることは、努力ではありません。もっと言えば、頑張らないことです。今ここに在ること、丁寧に生きることは、宗教でもなければ「より良い人間」になるための修行でもありません。善と悪、正しい態度と間違った態度を比べる話でもない。むしろそれは、自然な状態に戻ること、私たちがもともと持っているデフォルト設定に戻ることなのです。

人生を買い物のように扱っていないか

ひとつ身近な例を考えてみてください。スーパーに入るとき、たいてい私たちは明確な目的を持っています。牛乳、卵、あと何か一つ。棚に並ぶすべての商品を眺めたり、新商品の説明を一つひとつ読んだりはしません。必要なものだけに集中し、一直線に目的を果たして店を出る。この態度は、買い物としてはとても合理的です。問題は、同じ態度を人生そのものに使ってしまうことです。

いつもの反応が人生を狭くする

気づかないうちに、私たちは毎日ほとんど同じ思考、同じ反応、同じ結論を繰り返しています。「まあ、こんなものだ」「これが自分だ」という安心できるシナリオだけを再生し続ける。その結果、人生は「いつもの通路」だけで構成されるようになります。

ここで、少し立ち止まって考えてみてください。最近「え、こんな展開ある?」と思ったのはいつでしょうか。自分でも予想外の選択をしたのは、何年前だったでしょう。今日一日、本当に“今”を感じていた時間は、どれくらいありましたか。

それは快適さではなく、慣れかもしれない

私たちはよく「快適に生きたい」と言います。しかし実際にやっていることは、記憶のリピート再生であることが多い。それも、一番安全で、一番退屈なバージョンです。それは本当に快適なのでしょうか。それとも、ただ慣れているだけなのでしょうか。

人生は管理するものではない

大切なことがあります。人生は、意図から始まるものではありません。「こうなりたい」「こうあるべき」という考えより前に、人生はすでに動いています。人生は管理するプロジェクトでも、改善すべき人格プランでもありません。それは純粋な可能性であり、完全にオープンソースなものです。マニュアルはなく、保証もありませんが、アップデートだけは常に最新です。

正解を手放したところから始まる

最後に、いくつか問いを残します。今日、「こうしなければならない」を一つ手放すとしたら、何でしょうか。今この瞬間、目的を忘れたとき、あなたの体は何を感じていますか。もし人生が「正解のない遊び場」だとしたら、あなたは今、どこで立ち止まっているのでしょう。

人生は、上手に生きるものではありません。開いて、生きるものです。たまには、いつもの通路から外れてみてください。何かを買うためではなく、何かに出会うために。

探索こそが、人生の楽しみ

私にとって、人生の大きな喜びのひとつは「探索」です。知らない状況に入り、予想外の出来事に出会い、まだ言葉になっていない感覚に触れること。正しい答えを探すことよりも、そのプロセスそのものに、人生の味わいがあるように思います。

本当の旅は、「正解」を手放したときに始まります。

いくつかの問いを残して

最後に、いくつかの問いを置いておきます。答えを出す必要はありません。少し、遊ぶように想像してみてください。もし今日、あなたが大切に握りしめている「お気に入りの確信」をひとつ手放すとしたら、それは何でしょうか。今この瞬間、「自分は変わらなければならない」「もっと良い人間にならなければならない」という考えを忘れたら、何が起こるでしょうか。もし人生が本当に「自由な遊び場」だとしたら、あなたはこれから、どんなふうに自分の人生を遊びますか。

さあ、続きを一緒に 急がなくていい。うまくやろうとしなくていい。想像することそのものを、楽しんでください。さあ、行きましょう。人生というゲームの旅を、これからも一緒に続けていきましょう。

今この瞬間を、どうぞ。Enjoy the now.

雪の朝と「プレゼンス」という言葉

今朝、目を覚ますと、夜のあいだに雪が深く降っていた。庭も屋根も門も、すべてが静かに覆われている。音が吸い込まれ、時間が少し止まったような景色だった。その瞬間、頭に浮かんだのが、フランス語の 「présence(プレゼンス)」 という言葉だった。だが、改めて思った。プレゼンスって、いったい何だろう?よく使われる言葉だ。「今ここにいること」「意識的であること」「マインドフルであること」。けれど、この雪景色の前に立ったとき、それらの説明はどれも少し足りない気がした。

考える前に、体が反応していた。冷たい空気。雪の重み。音のなさ。判断も解釈もなく、ただ在るという感覚。このとき私は、「プレゼンスとは何か」を理解しようとしていたのではない。すでに、それの中に立っていた。

そこから、あらためて考えたくなった。私が大切にしてきた「生活はアート」という言葉の核心にあるもの。料理、家、もてなし、日常、年齢を重ねること。それらすべてに共通して流れている、この感覚の正体を。

──プレゼンスとは何であって、何ではないのか。

──そして、どうすれば日常の中で、それを失わずにいられるのか。

そんな問いから、この文章は始まっている。

― 生活はアートではなく、アートフルな在り方 ―

フランス語の présence(プレゼンス)という言葉は便利だが、日本語にすると一つの言葉では収まらない。「存在」「今ここ」「気づき」「在り方」──いくつもの表現に分かれる。それは、日本語のほうが、この感覚の繊細さをよく知っているからだと思う。ここで言うプレゼンスとは、特別な精神状態のことではない。人生を作品のように「作る」ことでもない。

生活をアートにする、というより、生活をアートフルに生きる在り方のことだ。

プレゼンスは努力ではない

「今ここにいよう」「ちゃんと感じよう」と思った瞬間、すでに少し力が入っている。プレゼンスは集中でも修行でもない。むしろ、余計なことを足すのをやめたときに自然に残る状態だ。巧みさとは、力を入れることではなく、無理をしないことでもない。ちょうどよく応答できている状態のことだ。

プレゼンスは頭より先に、体にある

私たちはすぐに頭で考え始める。意味づけ、判断、解釈。でも実際には、体の感覚のほうがいつも先に答えている暑い、寒い、落ち着かない、心地いい。これらは解釈される前の、生で正確な情報だ。

アートフルな在り方とは、理解する前に、まず感じることを許すことだ。

料理をしているとき

料理中、私は「今ここにいよう」と考えていない。火の音、香り、色、手応えに注意が向いているだけだ。頭が別のことを考えていると、すぐに分かる。焼きすぎる。タイミングを逃す。料理は嘘をつかない。注意が外れると、結果に出る。ここにあるのは精神論ではない。感覚への信頼だ。


家を整えるということ

家を整えるとき、「センスよく」「正しく」と考え始めると疲れる。でも、光、風、静けさを感じながら座ってみると、体が教えてくれる。

これは多い。

これは落ち着かない。

これは要らない。

アートフルな在り方とは、正解を探すことではない。

年齢を重ねるということ

年を重ねると、体はより正直になる。疲れ、回復の遅さ、リズムの変化。それを否定すると、苦しさが増える。

感覚に注意を戻すと、新しいバランスが見えてくる。プレゼンスとは若さを保つことではない。今の自分と争わない巧みさだ。

プレゼンスは特別な時間ではない

プレゼンスは瞑想の時間だけに現れるものではない。買い物、料理、会話、掃除。日常の中に何度も現れている。ただ、私たちが見逃しているだけだ。

プレゼンスとは「状態ゼロ」

フランス語で「プレゼンス(présence)」の反対語は「アブサンス(absence)」だ。つまり、ここにいないこと。心が別の場所に行っていること。体はあっても、感覚が閉じている状態。日本語でも「不在」「上の空」「気が散っている」「心ここにあらず」など、微妙なニュアンスがいくつもある。それだけ、人は簡単に“いなくなってしまう”ということだろう。

この点において、実は一番正しい生き方をしているのは――うちの猫かもしれない。彼女は「プレゼンス」という言葉を知らない。説明もできない。だが、彼女はそれを自然に生きている。音、匂い、気配、空気の変化。彼女は何ひとつ見逃さない。判断もしない。心配もしない。ただ、完全に受け取っている。

それに比べて、私たちはどうだろう。頭の中には、過去の記憶や経験、思い込み、評価、判断が積み重なっている。それらが無意識のうちに現実の前に立ち、人生を見るためのフィルターになってしまう。その結果、目の前に差し出されているサインやチャンス、可能性の多くを、私たちは気づかないまま通り過ぎてしまう。人生が何かを差し出していても、「前と違うか「想定外だから」という理由で、受け取れなくなってしまうのだ。

 

人生の坂 ― 喜び・創造・エネルギー ―

水はなぜ坂を下るのか

水が坂を下るのは、怠けているからではない。楽をしているからでもない。ただ、そこに動きが生まれるからだ。逆らわず、しかし受け身でもない。坂とは「力を入れなくても進める方向」のことではなく、「エネルギーが自然に循環する方向」のことだ。

じゃあ、私の坂はどこだろう?

このイメージを人生に当てはめると、自然と問いが生まれる。なぜ私は朝起きるのか。なぜ夜遅くまで厨房に立っているのか。なぜ食材を選び、火を入れ、盛り付け、誰かの前に差し出すのか。なぜ、今さら体力を使う仕事を、自分の意思で続けているのか。

答えは意外とシンプルだ。それが私を動かす坂だから

坂は「簡単な道」ではない

ここでよくある誤解がある。坂=楽な道、という勘違いだ。料理は楽ではない。体力も使うし、神経も使う。それでも続けられるのは、無理に自分を説得しなくていいからだ。「なぜこれをしているのか」を毎朝確認する必要がない。動きが、すでにそこにある。

好きなこと=簡単なこと、ではない

「好きなことをやればいい」と言うと、軽く聞こえる。でも実際は逆だ。好きなことほど、面倒で、疲れて、逃げたくなる日もある。それでもやめないのは、それが努力を引き受けられる方向だからだ。

楽だから続くのではない。続けたいから、エネルギーを使える

快楽は、ご褒美ではない

料理の楽しさは、成功した後のご褒美ではない。味を決める瞬間、香りを確かめる瞬間、微調整する瞬間、その途中にある。だから私は料理をする。結果ではなく、プロセスそのものが心地いい。快楽とは、後からもらう報酬ではなく、「今、合っている」というサインだ。

幸福は「別の場所」にない

幸福は、いつか到達する状態ではない。もっと余裕ができたら、もっと成功したら、もっと楽になったら……その先にあるものではない。

私にとって幸福は、今やっていることの中にある。疲れる。でも空っぽにはならない。その違いは大きい。

メゾン・ジュリアンの料理が毎日違う理由

メゾン・ジュリアンのメニューは毎日変わる。天気で変わる。季節で変わる。来る人で変わる。そして、シェフのコンディションでも変わる。これは気まぐれではない。その日の坂を読んでいるだけだ。

同じ料理を無理に当てはめるほうが、不自然になる日がある。

人生も、同じことをしている

人生も毎日メニューを変えている。昨日うまくいった方法が、今日は重たいこともある。水は昨日の形を覚えていない。だから今日の形になれる。

問題は「正解かどうか」ではない。今の坂に合っているかどうかだ。

最後に残る問い

問いは一つでいい。自分のエネルギーを使ってもいいと感じられる場所はどこか。そこに無理がなく、納得があり、動きが生まれるなら、それがあなたの坂だ。水は方向を選ばない。ただ傾きを読む。だから自然に流れる。それだけのことだ。

人生は絶えず即興する

 

ブルース・リーの有名な言葉「Be water(水になれ)」は、よく誤解されている。ポスターに印刷され、プロフィールに書かれ、人生訓のように消費される。だが、彼が言っていたのは「柔軟になれ」という抽象的な精神論ではなかった。もっと具体的で、身体的で、少し不安定なことだった。

水は柔軟になろうとしない

水は状況に応答する。打たれれば形を変え、流れがあれば流れ、閉じ込められれば圧をかける。計画はしない。だが、無秩序でもない。

即興とは「適当」の反対

即興という言葉から、多くの人は「その場のノリ」「思いつき」「適当さ」を連想する。だが本当の即興はその逆だ。準備がなければ起きない。水が水であるためには、重力、地形、温度、器の形を正確に感じ取り続けている必要がある。即興とは構造の欠如ではなく、構造の中での応答性だ。ブルース・リーの「Be water」は、型を捨てろという話ではなく、型に固まるなという話だった。

メゾン・ジュリアンは応答から生まれた

振り返ってみると、メゾン・ジュリアンそのものが、計画よりも応答から生まれている。宮津という、行ったこともない町。見たこともない家。合理的に考えれば、選ばない理由はいくらでもあった。それでも、呼びかけがあり、注意があり、応答があった。水のように、流れた先がここだった。

なぜメニューは毎日変わるのか

メゾン・ジュリアンのメニューは毎日変わる。天気で変わる。季節で変わる。その日に来るお客さまの顔ぶれで変わる。そして正直に言えば、シェフの気分でも変わる。これは気まぐれではない。その日の状況を、きちんと感じ取っているだけだ。重たい料理が合う日もあれば、軽さが必要な日もある。静かなテーブルもあれば、賑やかなテーブルもある。同じレシピを当てはめるほうが、むしろ不自然だ。

再現性よりも、生きていること

多くの料理は再現性を大切にする。いつ来ても同じ味。それは安心であり、美徳でもある。だがメゾン・ジュリアンが選んでいるのは、別の道だ。その日、その瞬間に合った一皿。水が器によって形を変えるように、料理も状況によって姿を変える。だから予測できない。だから同じ体験にはならない。そして、それを面白いと思う人たちが集まってくる。

不確実さを楽しめる人たち

メゾン・ジュリアンに来るお客さまは、「何が出てくるか分からない」ことを不安ではなく、楽しみとして受け取れる人たちだ。コントロールを少し手放し、流れに身を任せることを選ぶ人たちだ。これは料理の話であり、同時に人生の話でもある。

人生も毎日メニューを変えている

人生もまた、毎日メニューを変えている。天気、出会い、体調、気分、予期せぬ出来事。昨日の正解を今日も当てはめようとすると、どこかで無理が出る。水は昨日の形を覚えていない。だから今日の形になれる。

「Be water」の本当の意味

「Be water」とは、自由奔放になることではない。「何でもあり」になることでもない。状況に対して正直であることだ。メゾン・ジュリアンの料理が即興なのは、計画がないからではない。注意があるからだ。

人生も同じだ。人生は絶えず即興している。でも、適当ではない。水のように、方向を選ばず、傾きを読む。

 

信念があったら、たぶん来なかった

 

正直に言えば、もし当時の私が少しでも「合理的」だったら、宮津には来ていなかっただろう。日本海側の小さな町。派手な観光地でもない。人口は減少しつつある。条件だけを並べれば 選ばない理由はすぐに揃う。「ここでは無理だ」「成功しないだろう」「知らない場所は危険だ」。信念は本当に親切だ。考える時間を節約してくれるのだから。

すでに、十分だった生活

当時、私たちはフランス南部に住んでいた。気候は穏やかで、食材は豊かで、人々は陽気だった。住んでいたのは15世紀のアパルトマン。ユリはユリで、日本式のマッサージサロンを運営していて、静かで美しい空間に良いお客さまが集まっていた。二人とも不満があったわけではない。何かを「変えなければならない」理由はどこにもなかった。

それでも、動きは起きる

ところが、ある時から説明しづらい感覚が現れた。不満でも、欠乏でもない。ただ、「ここで完結していない」という感じ。人生が「まだ続きがありますよ」と、さりげなく知らせてくるような合図だった。こういう時、人はよく快適さを理由に立ち止まる。もう十分だ。今さら冒険しなくていいだろう?居心地の良さには説得力がある。だが同時に、そこにはもう動きがない。呼びかけは聞こえているのに「安全」という言葉で音量を下げてしまう。

問われていたのは、勇気ではなかった

この時に問われていたのは、リスクを取るかどうかではなかった。快適さを守るか。それとも、すでに起きている動きに応答するか。信念に従うか。注意に従うか。違いはそれだけだった。

顔のない声が、輪郭を持つ

そして、その引力は少しずつ方向を持ち始めた。宮津行ったこともない場所。なぜか分からないが、ある日ふと一人の友人の顔が浮かんだ。昔、私の本を読んでくれていて、結婚を機に東京を離れ夫の故郷である宮津に移り住んだ人だ。理由を考える前に電話をかけていた。「もしかしたら、次は宮津かもしれない。」彼女は夢でも聞いているのかと思ったと言った。私自身も、半分はそう思っていた。ただ、その場で一つだけ条件が口をついて出た。「もし、古い日本家屋でレストランができそうな場所があったら、その時は本気で考えるよ。」

人生の返事は、案外はっきりしている

しばらくして、連絡が来た。彼女と彼女の夫が見つけてしまったのだ、まるで理想の見本のような家を。しかも、沖縄のようなプライベートビーチ付き。偶然と言うには出来すぎていた。人生からの返事としては かなり分かりやすかった。その瞬間、頭より先に心が答えた。「行こう。」

決断ではなく、応答

これは勇気ある決断だった、とは思っていない。むしろ逆だ。猫が音に反応するように、何かが起きてそれに応えただけ。計画もなく保証もなかった。人生が少し動き、こちらも動いた。それだけだ。後から見れば大きな転換点だが、その瞬間はとても静かだった。

来てから、分かること

宮津に来てから初めてレストランとなる物件を見た。古くて、癖があって、完璧とは程遠い日本家屋。だが同時に、不思議と「よく応答する家」でもあった。こうしようと決める前に「こうなるよ」と教えてくる。レストランのコンセプトも最初からあったわけではない。土地、人、季節、流れに当たりながら形が生まれていった。河の流れように。

助けは、最初から来ていた

振り返ると助けは何度もあった。出会い、タイミング、偶然とは言い切れない出来事。もし「こうでなければならない」という強い信念を持っていたら、それらはきっと見えなかっただろう。洪水の話と同じだ。ボートも、ヘリコプターも来ていた。見えるかどうかは、信念次第だった。

目的は、あとから現れる

面白いことに「何をしたいのか」という問いは後から現れた。先に目的があったわけではない。応答が積み重なり、気がつけば「メゾン・ジュリアン」という形になっていた。猫が一日を生き、気づけば一日が終わっているように。

結び

もし私が信念を握りしめていたら、メゾン・ジュリアンは存在しなかっただろう。信念を持たなかったからこそ注意が残った。注意があったから応答できた。応答した結果、今ここにいる。これは計算ではない。努力で引き寄せるものでもなく、押し通すことでもない。人生は計画を求めていなかった。信仰も求めていなかった。最初から、人生が欲しかったのは――注意と、開かれた心だった。