
私が住んでいる場所は、宮津市の一角にあるKundaという地区である。 ここに移ってきて一年余りになる。私は日本に来たばかりの訪問者ではない。三十年近くこの国で暮らしてきた。の間、建築が人の身体や振る舞いをどのように形づくるかを観察してきた。
私が来た当初、この環境はまだ比較的保たれていた。木造家屋が並び、屋根の高さにばらつきがあり、庭は装飾ではなく生活の一部として機能していた。しかし、この一年で、静かに変化が始まっている。 合法的に、合理的に、そして説明可能なかたちで。メゾン・ジュリアンの隣にあった伝統家屋は解体された。感傷の問題ではない。 明確に語る必要がある、ということだ。そのため、この文章はやや理論的になるかもしれない。
建築は身体を教育する
家は中立ではない。建築はまず身体に働きかける。思考の前に、姿勢を整える。
玄関の段差は内と外を区切る。
素材は音と温度を変える。
光は時間とともに移ろう。
畳は座り方を変える。
天井の高さは背骨の伸び方を変える。
これらは意匠ではない。身体への指示である。身体が繰り返す動作は、やがて無意識になる。無意識は注意の質を決める。
標準化と知覚の変化
現代の建築は効率を優先する。ばらつきを減らし、摩擦を取り除き、最適化を目指す。それ自体が悪意であるわけではない。構造の問題である。しかし、均質な空間は均質な姿勢を生む。均質な姿勢は、注意の幅を狭める。この状態が世代を越えて続けば、近似値が受け入れられるようになる。やがて近似値は見えなくなり、それが標準になる。「十分」の基準は、静かに下がる。議論されることなく。
経済合理性という力
建築の判断基準が経済合理性に偏ると、速く建てられ、交換可能で、拡張可能なものが優先される。
時間を要するもの。
伝承を必要とするもの。
個別性の高いもの。
維持と手入れを前提とするもの。
これらは自然と不利になる。これは誰かの陰謀ではない。仕組みの帰結である。収益を軸にした体系は、循環の速度を重視する。その結果、場の継続性は後退する。
役割の転換
空間が商品として扱われると、人の役割も変わる。住人は利用者になり、消費者になり、受益者になる。本来は守り手であり、手入れする者であり、質を保つ一員であったはずだ。空間が責任を要求しなくなると、意味は薄くなる。
なぜ今なのか
Kundaは特別な場所ではない。だからこそ重要である。隣の一軒が解体されたことは、小さな出来事に見えるかもしれない。しかし、その積み重ねが、感性を育てる空間の密度を減らしていく。
建築は姿勢をつくる。
姿勢は注意を変える。
注意は関係を形づくる。
関係は想像力を育てる。
想像力は文化をつくる。
循環である。その循環を支えてきた形が失われれば、想像力は劇的に崩壊するのではなく、徐々に平坦化する。私が建築遺産の保全に関与しようとするのは、美観の問題ではない。懐古でもない。建築は形成的である、という認識の問題である。
それを忘れたとき、失われるのは風景ではなく、文化の厚みである。





